QUAID-E-AZAM MUHAMMAD ALI JINNAH

建国の父、カーイデ・アザム、ムハンマド・アリ・ジンナーのパキスタンに対する思いは、72年にも及び長く、また謀殺された公の仕事の中で、十分に 示されました。誰が見ても、彼は激動の時代を生き、彼の業績は多次元のさまざまな場所で見つけることができます。そのうちのいくつかは周囲に期待された以 上の役割を歴史の中で果たしてきました。彼は20世紀前半のインド亜大陸の優秀な法律家であり、ヒンドゥ教とイスラム教を結ぶ大使であり、法律を作り、才 能あふれた代議士であり、政治家としての働きは目覚ましく、不屈の自由の擁護者であり、ムスリムの指導者として働き、政治戦略を立て、これらのすべての知 識、力を使って近代国家を築き上げました。他の政治家たちは、歴史と伝統に従い、またこれらを取り入れながら人々を導いていきましたが、彼は少数派の人た ちをまとめながら、混乱の中から、10年という短い期間で国を築き上げました。1947年の独立から30年ほど前、イスラム教徒は、南アジアの地で独立を 求め始めました。ジンナー氏はインドのムスリムに、政治的リーダーシップを持ちこみ、徐々にその影響力を強めていきました。そして、独立運動の中でカーイ デ・アザム(最高の指導者)となるまでになりました。30年以上にわたって、彼はイスラム教徒を導いてきました。彼は情熱、一貫性、と正確な指導力を発揮 して、立法権への望みと夢の擁護を行いました。彼はこの二つの望みを、イギリスの支配と、インド亜大陸の大多数であるヒンドゥ教徒から勝ち取りました。激 動の時と、落ち着いた時、両方で同じ一つの目標を目指すことは困難が伴いますが、彼はそれを乗り越え、大陸の一角にムスリムのための世界を作ったのです。 彼の人生はインド亜大陸でのムスリムの再生、目覚ましい国家の成立とかさなっているのです。

青年期

​​1876 年12月25日、彼はカラチの著名な商人の家族の中で生まれました。彼はシンディーのマドラサ・ウル・イスラムとクリスチャンのミッションスクールで学 び、1893年にリンカーン法律養成所に入り、3年後にインド人として最も若い弁護士となりました。法律家として彼は自身の才能と決断力を使い、一つ一つ の仕事をこなしていきました。彼の突出した働きは認められ、数年後にはボンベイで最も成功した弁護士となりました。弁護士として法曹界で働くようになった 後、彼は1905年からインド国民会議に顔を出すようになりました。彼はイギリスにゴーパル・クリシュナ・ゴカレ(1866年ー1915年)とともに国民 会議の代表としてわたり、英国式選挙によってインドに独立政府を作るように交渉にしました。一年後、彼は、後のインド国民会議の議長であり、当時はまだ政 治家の卵であったダダバーイ・ノアロジ(1825-1917)の秘書となり、カルカッタ議会で1906年12月に初めての政治家としてのスピーチを行い、 自治政府の必要性を説きました。

政治家としての始まり

3年後、1910年1月、彼は大英帝国立法府議員に選ばれました。この仕事を皮きりに、彼はその後40年にわたり、政治の世界で働くことになりま す。彼は議員の中で、もっともインドの自由と権利の擁護に熱心に働きました。彼はインド人の議員として初めて、議会に法案を提出し、ほどなく議会の一つの グループのリーダーとなりました。インド地域総督秘書であったモンタグ氏(1879年ー1924年)は、第一次政界大戦が勃発する直前、彼を「完全に落ち 着いた人で、素晴らしい身のこなしで方言を使いながら論舌をかわす。」と評価し、ジンナーは「とても賢い人で、当然、国政から外されるような人物ではな い。」と言いました。

1906年、政治の政界に身をおいてから30年にわたり、ジンナー氏は、勤勉にヒンドゥ教徒とイスラム教徒の間を取り持つために働いてきました。ガ ンジー氏の前にヒンドゥ教徒の指導者であったゴカーレ氏は彼について、「ガンジー氏はすばらしい人物であり、この各宗派のいがみ合いの中にあって、彼の働 きはヒンドゥ教徒とイスラム教徒双方に信頼をされています。彼はヒンドゥ教徒とイスラム教徒のコミュニティーを作ることのできる人物である。彼は1916 年の議会の混乱を乗り切り、双方が合意をする有名な協定を作った。議会とインド国民会議はこの大陸で二つのまとまりを形成しつつあるが、双方の合意は誠に 困難な仕事であった。」と語りました。

ここで語られている合意は、後に1919年の合意と呼ばれるモンタグーシェムスルフォード協定の基礎となる合意でした。思い起こすに、ラックーナウ 協定はインドの政治を興すための基石となりました。さらに、この協定はイスラム教徒に、個別の選挙を許し、中央と少数派の藩王国で一定の議席を持つことを 許すものでした。この議席の保持は次の改革の段階で保障をされました。そのほかにも、この協定は、ムスリム協会に全インドイスラム教徒の代表としての一定 の力を持たせることを意味し、インド政界の中でイスラム教徒が一定の力を持つことができるようにもなりました。ジンナー氏はこれらの協定の順守に力を注ぎ ました。1917年には、ジンナー氏はヒンドゥ教徒、イスラム教徒を含めたインドの政治家の中で、もっとも力をもった政治家であると考えられるようになり ました。彼は議会、帝国政府組織の中で突出した政治家であるというだけではなく、彼は全インドムスリム連盟の指導者であり、ボンベイの地元指導者会議の指 導者でもありました。さらに大切なことには、ラックーナウ協定により、彼はヒンドゥ教徒、イスラム教徒合同のコミュニティーの代表となりました。

憲法の問題

そののち、彼は政界での暴力に心を奪われ、痛めてきました。ジンナー氏は穏健な、漸進的な、継続的な「組織的な成長」を常に念頭においており、暴力の使用は、独立への近道ではないだけではなく、合意を反故にし、破壊してしまうと考えていました。

植民地法に対し一般の人の不満が蓄積されていく中、過激な行動をする人々が現れることは避けられないことでした。しかし、ガンジー氏は、ラビンドラ ナス・タゴレ(1861-1941)が考えていたように、これらの行動に否定的で、断念してもらわないと恨みを蓄積させるのみで、建設的ではないと考えて いました。ジンナー氏はガンジー氏が1920年代初めにパンジャブで計画した、キラファット・ロングフル計画に反対の立場を示しました。ガンジー氏の運動 の行われる前夜、彼はナグパー議会の総会において、「インド国民議会で(サワラージでも)なされたあなたの宣言は最後まで完遂することはできないでしょ う。」と言いました。彼は、独立には近道がなく、近道を急ぐと、政治的な暴力、無政府状態、混乱が起こり、完全な独立を成し遂げるのに邪魔になるだけだと 考えていました。

こののちの歴史は、彼の言った最悪の事態が実現しただけでなく、彼の考えが正しいことも証明しました。ジンナー氏は議会を後に離れ、彼は「南アジア の平和のためにもっとも大切」とかんがえていたヒンドゥ教徒とイスラム教徒の協約の成立をするために働きました。しかしながら、国中に広がった混乱の中で 起こった二つのコミュニティーの離反と、ヒンドゥ教徒がイスラム教徒の要求に耳を貸すことを無視したため、彼の努力はほとんど無駄になりました。彼の努力 の一つは、1927年にできたデリー・ムスリム計画でした。ヒンドゥ教徒とイスラム教徒の間を取り持つために、これらの計画をすることは、906年以来の イスラム教徒の切実な願いの一つでありルクナウ協定で認められた、イスラム教徒の分離選挙を留保し、二つのコミュニティの摩擦を減らすものでした。驚いた ことに、1928年のネルー・レポートでは、デリー・ムスリム計画で示された将来の憲法の指針では、イスラム教徒が示した最低の要求さえも無視されまし た。

この件で、ジンナー氏は国会で「私たちが求めているものは、ヒンドゥ教徒とイスラム教徒が双方独立を達成するまで双方が協力をすることである。私た ちは、若いし、協力し、共通の目標を持つ必要がある。」と伝えました。イスラム教徒の要求の拒絶は、ジンナー氏の生涯の仕事をくつがえし、パールシー教徒 の友人に彼自身が漏らしたようにイスラム教徒にとっては「最後のチャンス」を、彼にとっては「道を閉ざされた」形になりました。この仕事の失敗は、彼の南 アジアでの生活を困難にし、彼は1939年代の初めにロンドンに移住しました。しかし、彼は自分の宗教の人たちに懇願されて1934年にインドに戻りまし た。当時、イスラム教徒はつらい時を送っており、大きな不満、男女の混乱、政治的分裂と明確な政治活動の頓挫が目立っていました。

ムスリム連盟の再生

帰国したジンナー氏を待っていたものは、複雑で難しい課題でした。ムスリム連盟は地方支部も含めて活動を停止していました。また、残ったいくつかの 支部も、中央からの指示をただ受けるだけもものになっていました。さらに、ジンナー氏が1936年にボンベイ活動を行うまでムスリム連盟はは一貫した政策 を持つことがありませんでした。さらに悪いことに、地方では、ジグソーパズルのようになっていました。パンジャブ、ベンガル、シンド、北西辺境、ビホー ル、地域連合などの指導者は、自分の力を蓄えるためにこれらの組織をつかっていました。これらの状況への錯綜の中で慰めとなったのは、哲学詩人であり、彼 の側に立ち、これらの状況の中でもインドの政策を築くために骨を折ってくれたアラーマ・イクバル氏(1877年-1938年)のみでした。

これらの状況を改善するために、ジンナー氏は、イスラム教徒に共通の地盤に立たせるように自分の時間を能力を捧げました。彼はインド各地を回り、各 地の指導者に対して、それぞれの地域の違いを無くし、連盟が一つの価値観を持つように懇願をしました。彼はイスラム教徒に連盟に加入するように熱心に勧め ました。1935年、彼はインド政府の中で、イスラム教徒の揺るがない道と意見を伝えました。彼は、連邦制度はインドの目標である、人民の政府への責任性 を崩すものであり、破棄するべきものとし、地方分権主義は、地方政府を第一に考え、国にとって最も大切な問題への対処が遅れながらも、必要であると伝えま した。さらに1937年の選挙に際して公約を準備しました。彼は時間に追われながらも、インドのイスラム教徒の力を一つにまとめあげるように働きました。

多くの問題を抱えながらも、ムスリム連盟は国、地方それぞれに用意されたイスラム教徒用の議席485議席のうち108議席(23%)の議席を得るこ とができました。この事実は驚きを与えはしませんでしたが、ムスリム連盟は、唯一の全インドのイスラム教徒の組織であり、またイスラム教徒用の全議席の中 で最大議席を得た政党になりました。この選挙は、南アジアのイスラム教徒が独自の国を持つための最初の試金石になりました。1937年に議会で得たこの力 は、近代の南アジアの歴史の中で記念に残るものでした。その年に、インド政府は1935年に決めた地方への分権の決議を実行することになりました。

インドの政界で力を持ち始めていた国民議会は、7つの地域に権限を移譲することになり、最終的には議会はイスラム連盟の提案を拒絶し、中央政府の考 え方に戻り、イスラム教徒の政治的意見を黙殺することになりました。その年、ムスリム連盟はジンナー氏の指導の下、デノボと呼ばれるイスラム教徒のまとま りを作り、それぞれの組織からこれまでになかったスポークマンを作りました。その上、重大な年にはインドの政治の方向に道筋をつけ、その次の年には必然的 に起こる地域の分割を行いました。議会の公約は1937年7月に11の地方のうち7つので行われました。しかしこれはイスラム教徒に、議会の計画はヒン デュー教徒が優位の国を作り残りの宗派には、「二級国民」としての地位しか与えないという印象を与えました。地方政府の政策は、イスラム教徒に、彼らの宗 教、言語、文化に対する攻撃が行われるような政策をとるように見えました。この攻撃的としか見えない政策はジンナー氏によって把握され、全インドのイスラ ム教徒に対して、一致と団結をさせることに成功をさせました。彼はさらにイスラム教徒の心の底にあり、あいまいでありながら、気持ちをわかりやすく説明 し、イスラム教徒たちに不屈の意志を植え付け、強い信仰をもたらしました。

新しい覚醒

ジンナー氏の不屈の努力により、ベーカー教授によるとイスラム教徒は「不屈の沈黙」と呼ばれる状態になりました。(これまでの長い間、彼らは完全に 服従されていただけでした)また、長い間夢見てきた「建国の意思」も持つようになりました。議会に対して自らの力を誇示することに成功したイスラム教徒 は、インド国立時の憲法の草案を書いたアンベドカール氏に「(彼らは)社会的な意思を持ち始め、彼らの望みに対する確かな方向性と実行力のある行動を取り 始めた」と言わせました。彼らは「国として生きる」ことを選択する以上に、文化の故郷であり、新しい国家を作るための地域を民間の間から築き始めました。 これらの2つの活動はインドやヒンドゥ教徒の国家の建国から自分たちの国の建国に対しての正当な理由を作りました。この長い沈黙ののち、イスラム教徒はそ の旨のうちの希望を著し、イスラム教徒の国、イスラム教徒の政府を求めるようになっていきました。

パキスタン建国への要求

「私たちは国を持つ。」建国の父からの宣言が出されました。「私たちには一つの独立した文化、民族、言語、文学、美術、建築、名前、学名、価値観、 国土、法律、モラル、風習、日付、歴史、伝統、素質、大志のある、一つの国民である。私たちには特徴的な生活があり、すべての国際法の観点から見ても私た ちはすでに一つの国である。」イスラム教徒のパキスタン建国の宣言は1940年に発行され、インドの政界に重大な変化をもたらしました。その一方、ヒン ドゥ教徒の意思は、ヒンドゥ教の帝国が英国インド統治領をそのまま引き継ぐものでした。彼らはイスラムの時代の改革の先駆者を自認したいと考えており、そ の構想にはイスラム教徒の参画が必要要件であったのです。ヒンドゥ教徒の反応は早く、かつ苦いものでした。

公平な態度をとるということが英国とイスラム教の要求でした。そのためにも、ヒンドゥ教徒のインドの一体化は阻止しなければならないものでありまし た。皮肉なことに、ヒンドゥ教徒と英国はパキスタン建国の望みが大多数のイスラム教徒によって出てきたということを考えないという驚くような反応を示しま した。彼らは1億人の人々が突然独立を望みだしたことに対して、驚くほど甘い見通ししか持っていませんでした。イスラム教徒のパキスタン建国への政治活動 に連なり、1947年に、パキスタンは独立を果たしました。建国の父、ムハンマド・アリ・ジンナー氏以上に建国のために働いた人物はいませんでした。彼の 精力的な働きにより、また印象的でデリケートな、パキスタンの独立の意思と戦後の時代へのパキスタンの役割を盛り込んだ妥協案により、独立を果たしまし た。

クリップス計画

1942年、パキスタン独立の要求はクリップスによって英国に報告をされました。そこには、各地域ごとの自治の必要性が盛り込まれ、1944年9月 に引き伸ばされたジンナー・ガンジー交渉の基礎を作ったC・ラジャゴパラチャリアの後に著名な議員と呼ばれたラジャジ・フォーミュラからパキスタンに交渉 の意思があることを伝えました。クリップス提案はイスラム教徒の意思が全く反映されていないもので、イスラム教徒としては受け入れることができないもので した。ラジャ・フォーミュラは、この提案が、「顔と体を切断するもの」であることから受け入れられることはないだろうとの意見を持ちました。パキスタンは すでに過剰なほど独立の空気があり、その空気を制御しきらなければならず、失敗すれば手のつけられない混乱が予想されました。
議会の目標は、もっとも慎重に行わなければならないこの交渉を1946年から47年にかけて遂行することでしたが、、選挙後の国民の意思は、議会と協会の二つに分裂し、インドの政界のもっとも重要な問題がパキスタン分離であるということを表したにすぎませんでした。

これらの交渉は1946年3月に3人の英国議会委員会によって始まりました。この委員会のまず直面した問題は、数ある政党の意見をまとめ、憲法を作 り、国民に認知される政府を作ることでした。しかし、議会と協会の溝を埋めることが絶望的な状況の中で、委員と総督の努力もありましたが、委員会は 1946年5月に計画を作ることにとどまりました。この議会委員会の計画では、中央政府は外交、防衛、通信、3か所の地域の限定的な統治に限るというもの でした。3か所のうちの北西ぶ、北東部の2か所はイスラム教徒が大多数を占めており、残りはインドの本国で、ヒンドゥ教徒が大多数を占めていました。委員 たちはジンナー氏に会う機会もありました。彼は中央政府の限定的な統治に関する節にいくつか変更点を加えることを要求し、「パキスタンの基礎」となる地域 を作り、1946年6月にムスリム連盟は提案をのみました。これにより、彼らは議会の計算から逃れ、議会の狼狽を誘いました。

残念なことに、連盟の提案受け入れは連盟そのものの政治的力の低下をもたらし、議会の潜在的な力を示しました。この後、議会はパキスタンが受け入れ 難いいくつもの提案を受け入れるように連盟に強いてくるようになりました。そのために、ジンナー氏と協会は早期の提案受け入れに難色を示し、変更や再提案 の要求を求めるようになりました。また、パキスタン自身からもいくつかの提案を行いました。ジンナー氏は策略を持って、見えなくなってしまっていた独立へ の筋道を立て、実行に向かいました。彼の状況の読みと戦略の柔軟な立案はパキスタンを有利に運びました。

分割案

1946年、分割案が提出されました。自治を求める暴動は驚くべき早さで全亜大陸を覆い、多くの人が家を失いました。二つの宗派の人たちは、まるで それが宿命であったかのように争いました。平和裏に分割をすることはすでに不可能となっていました。この状況を見て、英国政府は新しい総督を送ってきまし た。新しい総督、マウントバッテン卿は1947年6月3日にインドの政治家を集めて、交渉を行いました。英国は分割案を提案し、1947年8月15日双方 に渡しました。この分割案には、インドを議会、協会、アカリ・ダル(シーク教徒代表)の3つにわけることが書かれてありました。

独立国の指導者​

彼の独立までの働きへの重要な役割から、建国の父、ムハンマド・アリ・ジンナー氏は、ムスリム連盟により、パキスタンの初代政府指導者となるよう要 請をされました。インドではマウントバッテン卿が最初の指導者になりました。パキスタンは混乱の中から産声を上げた国ですが、世界でのいくつかの国はさら に少ない資源と大きな混乱の中から生まれました。新しい国は、これまでの政府組織を受け継がず、首都、政府組織、国防軍を組織する必要がありました。パン ジャブ州の一部分は通信をとることが難しく、その土地を離れました。ヒンドゥ教徒とシーク教徒の難民たちはその土地に資産と産業を残して行きました。

資産は少なく、インドはパキスタンに独立前の資産の分割には応じませんでした。そのために、生まれて間もないこの国は、800万人の難民に対して生 活の基礎を打ち立てるために働く必要がありました。彼ら難民は北インドの平野に、酷暑の中、危険におびえながら生活することを余儀なくされていました。も し、パキスタンが経済的、政治的弱体化の兆候ととらえられると、インドが国土併合のために軍を派遣することが考えられました。現に、1947年11月ジュ ナガド(パキスタンへの帰属を望む地域)とカシミール地方へインド軍が侵攻してきて、第一次印パ戦争がはじまりました。(1947年10月ー1948年 12月)この戦争はパキスタンの軍事的弱さを表し、パキスタンが併合をされないで生き延びることは不可能のように見えました。この不可能を可能にしたのも ムハンマド・アリ・ジンナー氏でした。国は個性的で、歴史と現在を結びつける指導者を必要としていました。ジンナー氏はその要請に答え、彼はただの指導者 ではなく、建国の父として、パキスタンが長く続くようにしてくれました。

最終的な分析として、彼の的確な舵取りがこのひどい状況から生まれたこの国を国際社会に認知された一つの独立国として成長させました。彼は莫大な名 声と疑いのない高潔さを持ち、人々を力づけ、モラルを確立し、建設的な動機と自由が約束されたこの土地への愛国心を植え付けました。疲労と病気が体をむし ばんでいましたが、ジンナー氏は建国最初の年、重い責任を果たしました。彼は新しい国の政治を確立し、国の重要な問題に対して国民に注意を喚起し、国会議 員が国民の奉仕者であると決めました。。軍隊は国民のために働き、法律と憲法が北インドの軍隊が張っているところをのぞいたすべての場所で運用されるよう にしました。彼はカラチから一時的にパンジャブ州に移り、難民問題の解決のために働きました。凶暴な人たち相手であっても、冷静さと安定さを保ち続けまし た。彼はラホールの住民に、難民を助けることに全力を尽くすことを勧め、自制を進め、少数民族を守りました。彼は少数民族を公平に扱うことを心に留め続 け、彼らのかたくなな心を和らげ、希望と安全を与え続けました。彼は多くの地域を訪問し、それぞれの地域の問題を聞き取り、彼らがパキスタンに帰属心を持 てるように働きました。彼は北西辺境州での英国統治の方針を改め、ワジリスタンの部族直轄地域から軍隊を撤退させました。それによってこれらの部族の代表 たちが自分の意思でパキスタンに自発的に参加できるようにしました。彼は新しく地域管轄省を作り、バローチスターンの新しい政治を築きました。彼はカラチ に定住し、カシミール問題でマウントバッテン卿との協議をするための場所として用意されたカラットを含めたこの地域の防衛に心を配りました。

最後のメッセージ

ジンナー氏は1948年8月14日、次のメッセージを残し、彼が自分に課せられた使命を完全に果たしたことを表明しました。「あなたの国が作られま した。さあ、あなたの目の前にこの国があります。手をとって、さらにに築き上げてください。」パキスタンの誕生を見届けてから間もなく、ジンナー氏は過労 のために体を壊し、1948年9月11日、亡くなりました。リチャード・サイモン氏は、彼の氏に先立ち、「パキスタンのために彼ほど働いた人物はほかにな い。」との言葉を残しました。

自身の人生をかけて、自らの民族の権利の擁護に働き、パキスタンのために型にとらわれない政策を実行し、またそのために誤解を受け続けたジンナー氏 はいかなる暴力にも反対をし、執念深い敵愾心を取り除き、またそのためにも誤解を受けました。ジンナー氏の最大の功績は、現代において全くの敵側の立場の 人も含めて多くのひとびとから勝ち取った称賛の言葉に表されています。

アガ・カーン氏は、彼が「自分が出会った人の中でもっとも素晴らしい人」といい、「インドの弁明」を著したベネーリー・ニコラス氏は彼を、「アジア で最も重要な人物」と呼びました。西ベンガル政府代表であったカイラシャナース・カーツ博士は1948年、彼を「インドだけではなく、世界でかれの名は 20世紀の人物として覚えられるべき人物」と呼びました。アラブ協会のアブデュル・ラーマン・アザム・パシャ氏は、彼を「イスラム世界でのもっとも偉大な 指導者の一人」と呼びました。パレスチナのムフティ将軍は、彼の死を「偉大な人物の死」と言いました。インド国民議会の一人、スラット・チャンドラ・ボー ズ氏は、「ジンナー氏」について、1948年の彼の死後、「彼は素晴らしい法律家であり、代議士であり、イスラムの指導者であり、世界の政治家であり、外 交官であり、有言実行の人であった。ジンナー氏の死によって、世界は一人の偉大な人物を失い、パキスタンは自身の創設者、哲学者、指導者を失った。」と言 いました。我らが建国の父、ムハンマド・アリ・ジンナー氏は、これほどの働きをし、そして私たちの心の中に今も生きています。